“嘘”を受容れる。

嘘なんて日常茶飯事だし、一生涯において自分、他人に対して嘘をついたことが無い人など
どの世界を見回してもいない。(産後~数カ月以内に無くなった嬰児は別にして)

もっとも醜くなってくるのは、成人を超えて25歳、30歳を超えたあたりからの人たちの嘘だ。

その嘘には自益だけではなく、他人や自分を支援する人たちまで含まれる場合が多々ある。
そう言った場合、嘘は単純ではなく、かなり入り混んだ嘘で、それを嘘だと断定するには相当な
労力が必要になる。

場合によっては嘘をつかれる自分の将来や恋愛、家族などを左右させるような酷いものも多い。
それでも嘘を受容れなければならないのか。

俺はそれでも他人の嘘を「受容れるべき」だと思う。
注意してほしいのは、許すのではない。受容れるのだ。

つかれた嘘について、あーだこーだと相手を非難したところで、裁判で係争でもしなければ、
相手はシラを切るのは明白。自白することは十中八九ないと思うのが自然だ。
だったらそれを拒むのではなく受容れてしまうことで、相手との関係も温和に終わる。
互いの人間関係や、自分に降りかかる難題を回避できるメリットを考えれば、受容れることは
決して悪いことではないと思える。

嘘の内容にもよるが、クリティカルな問題であればあるほど、今から相手とは疎遠にすればいい。
金の貸し借りはもちろん、様々な付き合いも相手を入れなければ良いだけの話だ。


この話と村上氏の話がどうくっつくのか?ということだが。
歴史は元に戻せないところを、戻すのは無理。村上氏が創った作品は、フィクションだがリアリティー
を持ったフィクションを作ったことは嘘を伝えようとしているのか?と俺には映ったのだ。
もちろんそういう意味では無いことは承知しているが、嘘などいつの世にも存在しつづけている話で、
それを一旦は受容れなければ、自分たちは先には進めない。だから・・・と言う意味で俺は書いた。

だからといって大罪を寛容に見るつもりは、ない。



何を価値、軸として生きていけばいいのか、当然そういう疑問が出てくるが、今、特にこれという軸がない。カルトというものはそういう人たちをどんどん引き付けてゆくことになると思う。僕らができることは、それとは違う軸を提供することである」と村上氏は言う。
<http://news.goo.ne.jp/article/reuters/entertainment/JAPAN-126056.html>