作品を描くとき

[浦沢直樹:「スピリッツ」11年ぶり新連載「あさドラ!」スタート 電子版も解禁 - MANTANWEB(まんたんウェブ)]

浦沢氏のようにヒットメーカーになると、仮に50話完結で考えてても編集部、出版社から
要望に応えて100話、200話続けなければならない事態になることがあると思う。
50話完結のストーリーを200話まで伸ばさなければならないとなると、収入の面では
嬉しいことだが作品を作る者としてはとても辛い。

桂正和氏がファン要望に応え、電影少女を当初考えていた終わり方ではない方法で
完結させた。という話はとても有名であるが、ファンの要望に応えて自分の考えにない
作品に作らされるということは、俺が作者なら非常に苦痛でしかない。

100話で完結させる。と決めたら、その予定を変更したくはない。
映画やTVアニメだと予算やスポンサーの都合で途中で打ち切りせざるを得ないことは
あることだし、それは受け容れざるを得ないが。

俺の場合、必ずどういうエンディングにするかは必ず考える。
でもそれ以外に、つまり作品として描かない部分も描いている。
エンディング以降の話もつくるのは基本で、そうでないと作品としてうまく終われない。

何をどう描こうと中心に描くものは人間であり、その人間=登場人物の生き様、考え方を
描いて、世の中のたらればを描くものが物語だと思ってる。
ドキュメンタリー、ノンフィクションであればタラレバを書いたら嘘で信憑性のない書物になるが
そもそもフィクションとして描いているのだから、世の中のタラレバを書くものだと思っている。

もちろん時代物を描くなら時代考証など資料を集めて、少しでもリアリティを上げて
読み手、観客の臨場感、親近感を高めたいと考えるが、所詮はタラレバ。
主人公が人間なら、魔法は使えないし、空も飛べないし、100億円も手に入らない。可愛いあの子と結婚することも出来ない。


自分が描く物語は、作品数こそ山のようにあっても全て1ワールドと捉えている。
時代設定で1000年離れてようが、住んでいる地域が異なっていようが異星人であろうが。
1ワールド化することで、ある種の一貫性を持たせたいからだ。


例えば50話(約1年)で製作依頼があったとして、読者の不評が続いてどうしても続けられなく
なったとしたら。俺ならウェブでも同人誌でも形を変えてでも最後まで描き切りたい。
逆に大好評で50話完結を200話に延ばして欲しいと言われても、俺は描きたくない。それで物語は終わりなのだから。
それくらいの気持ちは造物主なら考えを持っているものだと、俺は思っている。