アニメとゲームの、製作側から見た違い

要は主導権がどっちにあるべきか?という話。

ゲームはプレイヤーが疑似体感すべきだから、視点はユーザーにあるべき。

アニメは視聴者はあくまで観覧者の立場であるべきなので、視点は原作者(作家)にあるべき。

 

先に書いたここのブログで

視聴者と対話しようとしたこと。
https://twitter.com/0000taeko/status/1374178356598427654?s=20

 

 

と評価されていた方がいたことを紹介した。

俺の論でいえばアニメは観客は三人称視点であるべきだが、そこを敢えて観客という一人称視点で描いてみたらどうなるのか。という庵野氏の考えがあったとしたら。

観客目線だから観客が見て理解、納得できる形にしなければならず、自ずと視聴者目線の描き方になるのは自然の流れ。だと思う。

 

作品を書くにあたって
・1人称

・2人称

・3人称

がある。主人公目線か、家族や恋人、親友、友達目線なのか、第三者や作者目線かで描き方は異なる。いわゆる小説、脚本を書く上での設計方針にあたる。

作者は読者にとってどういうエクスペリエンス(体験)をさせるかによってこの描き方は変わるのだが、一人称で描くべきものを三人称で描いてみたりということは奇を衒う、インパクトを与えるために行う技法でもある。

それでも原則論はある。と俺は思っている。
それが冒頭に記したゲームはユーザー視点、アニメは作者視点で描くべきという話。
この原則論を外すならそれなりの理由がなければいけないと思う。何を目的とし、それにはどう描く必要があるから云々を他人に理解させる必要がある。

 

昨今はxR(VR、AR、MR)もあるので色々難しいが、原則論がしっかりしていれば仮にズレたとしても軌道修正(イニシャライズ)がしやすい。

 

俺はよく原則論、原則論ということが多いのだが、イニシャライズしやすくするために口酸っぱく言っているのであって、それを担保できないのであれば本道から外れるべきじゃないと考えている。
逆を言えば、原則論を守らなくてもイニシャライズに急な対応も可能なら、完全無視して作っても良いと思っている。(俺は付いていくのが大変だし違和感覚えるだろうが)

 

エヴァンゲリオン庵野氏をここ数回取上げ続けているが、彼なりにやりたい挑戦があって、製作現場が支持し理解し、また結果的に売上に結び付けば、例えアニメオタクらが猛反発したとしても庵野氏的には大成功と言えると思う。

 

 

正直。視聴者やゲームプレイヤーは30万人のユーザーがいたとして、感想や意見が同じってことは絶対にない。30万いれば30万通りの見方がある。当たり前。

制作サイドに立っている以上、売上必達。だがそれだけでは見えない部分も評価すべき。