「全て崩れ落ちた」精子提供で生まれた女性…過去に向き合うきっかけ(西日本新聞) - Yahoo!ニュース
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簡単に喋れない話。
犬や猫はそれこそ幼児期に親と離れても自分の父親は誰で、母親は誰でとそういったものを気にすることは無い。しかし人間は自分の父親や母親、自分の出生を気にする傾向が強い。何故なのか。
仮に今の親が生みの親ではなく育ての親(後見人)だったとしても自分は自分だし、友達は友達である。生活費は育ての親が面倒してくれているわけだし、住む家や部屋だって用意してくれる。にも拘らずそこに不満や違和感を持つってなんだろう。
パッと閃きで思うのは、人間は犬や猫などペットの血統書を気にするし、他人に対してもどこの出なのか?と血筋を気にすることがいまだに多い気がする。
血統はDNAの話ではなく家系の話であり、それはグループ、グルーピングである。
グルーピングはテリトリーを表し、血統を気にするのはテリトリー争いそのもの。
つまりテリトリーの争いは動物であればどんな生き物であれ持っている概念だということ。
自分のテリトリーがどこからどこまでか?を気にすることは動物なら誰しもあることで、いきなり見知らぬ場所に連れて来られたら私はどこにいるの?と思うのは当然の話で路頭に迷うのも無理はない。
テリトリーは動物にとって死活問題であり、それはまさしく生きるか死ぬかの話。
いまでこそ隣の国に行ったところで逮捕も拷問も死刑にされることもないが、たぶん江戸時代よりも前の時代は残念なケースは多々あったのではないだろうか。
子を捨てる親。
子を売る親。
子が欲しくて他を頼る親。
子が欲しくて養子を授かる親。
これを人間の性と言えば一言で終わる話なのだろう。でもそれだけで割切ってしまっていいものかという思いは個人的にはある。
理性を求めるが理性ある行動を本当の意味で行っている人を、俺はいまだかつて見たことが無い。
ということはそれだけ理性はイデアであるということ。