お金という強い縛りがある世の中で、いかに芸術性を高められるか

お金といっても経費、制作費、売上げ、客単価などといろいろある。

向谷実氏がボカロ、ボカロミュージシャンに対してひどく批判的なのは、彼らの演奏テクニックや芸術性の低さに対して怒りをぶつけている。
ジブリ宮崎駿氏も、自身の体力減衰が一番なのだろうが、あまりにも自分が認められる人が減りなくなってきていることに対して豊かな未来を思い描く事ができなくなったからという。

セガの超大作・シェンムーの開発費は約70億円と言われているが、ドリームキャストというゲーム機だったからなのか売上げは全く振るわなかった。
Grand Theft Auto IVは制作費100億円に対し売上げ本数2000万本(売上げ1000億以上)という記録はあるが)


売れるもの、売るものと、芸術性高さは、販売本数と正比例してはいない。
芸術性高いものが売れるか?というとそうでもないし、
素人つくりでも売れるものはある。


先日ここで取上げたセルライクCGアニメに対し俺は批判的に言ったのは、結局、どのスタジオ・製作会社もそこにたどり着くことは目に見えている。じゃあその先は何で戦うのか?武器はなんなのか?と言う話になるわけだ。
と考えればまた「お金だけ」の話に終始してしまう事も目に見える。
お金という強い縛り規制がある中では、表現者が自由に表現することはまず無理だと俺は思う。

とある放送でポニキャンの方がロードショウ映画の上映時間について色々権利問題等で縛りがあることをボツリと漏らしていた。
たしかに長ければいいというわけではないし、仕事は最大公約数の中でやり繰りしないといけないのはルール。
しかしどうでもいいシーンが後で効いてくることもある。そういうシーンを入れて10分伸ばすか否かは、監督が必要だと言っても、10分500万円前後かかる製作コストや映画館での上映コスト等々を言われると監督はどうしようもなくなる。

10本つくった10本合計の利益が20%を超えたら縛りなく好きなように作っていいよ、くらいの余裕がスポンサー側らに無いと、廃れるだけだと思う。

でもこれって経営者やスポンサー担当者のセンスに頼らざるを得ない。というのがそもそものリミッターなようにも思うのだ。