底をつくまで自殺は無くならないだろう。

著者は"アングロサクソン型の市場原理主義国家"と主義主張の話をしているが、主義主張は人によって変わるものだし、郷には入れば郷に従えだが、どの主義、主張を選ぶかは本人の自由だ。だから自由な国であるはずだ。
自殺をゼロにできなくとも少しでも減らしたい。また無くしたいと言う気持ちがあるのは分かるが、今後増えることがあっても減ることは無いと俺は思っている。
それは昔と今の成り立ちが大きく違っていることに着目すれば容易に分かる。

日本の人口が1億人を越えたのは1967年頃。
ここで時間を戻す。
第二次世界大戦終戦後(1945年)は、推定7200万人。その翌年、推定7600万人。
明治維新(1868年ごろ)は、推定3330万人。
安土桃山時代末(1600年ごろ)は、推定1227万人だった。

現在の世界各国人口を見る。先進国で見ると、
アメリカは、約3億人。日本が約1.3億人。ドイツは、約0.8億人。
フランス、イギリス、イタリアは約0.6億人。カナダは約0.3億人となっている。

これを見て分かるのは、アメリカが武力行使を予告して開国を強要した江戸時代末期と、かなり間があくが世界大戦後では倍以上の開きがある。また戦後年と翌年では約400万人も違う。
更に過去に戻れば、関ヶ原の合戦時は推定1220万人だったのが江戸末期には3000万人を越えている。
これは戦争(内戦を含む)が無くなったことで、病気や老衰などで死ぬことを除いて国民間に安心感が増え、死者数が減少したことによる自然増加が加速したからと結論付けられる。


人は戦争が無くなることで出産、育児ができるという安心感を得る。それによって人口は自然増加に転じる。
しかし現在はどうだろう。

中東や東南アジアなどは戦争や内紛が未だに止まないが、それは武器によって殺戮が行われているものだ。
飾り言葉を言うつもりはないが、先進国同士は経済と言う戦争にずっとあり続けており、状況としては戦争と大して変わらない。
強者が同クラスの主権争いで戦うのならいいが、それは殆ど行われず、強者は弱者を駆逐しようという動きに今はなっている。それは費用対効果面で強者が弱者を攻撃するほうが低コストで、自分たちの既得権を守ることに繋がりやすい。
セブンイレブン日本マクドナルド松屋フーズなどで名ばかり店長や長いサービス残業を実質的に強いることがいまだに続いている。しかも上場企業という公人性の高い会社であるにもかかわらずだ。
その代表的ニュースに東芝深谷工場で半年の間に二人の自殺者が出たと言う話がある。マスコミが報道しているソースは限定的であっても、惨たらしいと感じれるに十分な内容だ。


もちろん本人の問題。それがあることは否定はしない。
しかし本人を環境面、精神面、経済面などで追い詰めているのは他ならぬ企業(会社)だ。

尖閣ビデオ流出事件を見ても如何に日本に大義名分が無いかを如実に表している。
ある掲示板のコメントに「無宗教者の方が宗教信者より自殺者が多い」と述べているものもあった。その内容の信憑性や事実性は定かではないが、つまりは信用して頼れるものが「無いから」という実情に沿った言い方だ。
家族は?恋人は?親友や友達は?と言うだろうが、人間一番近しい人ほど傷つけたくない、巻き込みたくないと思うのが人情。結果、自分で断つと言う形になるのだろう。


下に挙げたブログ記事、結局は数の論理になってしまっている。
数は結果論でしかなく、自殺者がなくなる世の中にはどうすればいいのか?という確論に触れていない。
自殺を考えるということは、即ち今の社会をどう捉え、何が問題化を捉えて語るべきで、死者に哀悼をささげることを目的とすべきではない。なぜなら死者が蘇ることは決して無いし遺族となった家族はその悲しみから逃れることは出来ないからだ。

この記事のように浅い論議を起こすことしかしない。それが今の日本の風潮だ。

確論に入れば話を遮り、避けてしまう。こういう社会である以上、3万人どころか10万人になってもおかしくはない。問題を問題として捉え、正面から問題を解決しようと言う流れにならない限り、増えることはあっても減ることは無い。むしろ日本全土が自殺者の名所に挙げられるようになっていくと感じる。




日本人はなぜ自殺するのか? | 橘玲 公式サイト
<http://www.tachibana-akira.com/2010/12/1306>

プレジデントロイター
<http://president.jp.reuters.com/category/%E3%80%8C%E3%81%86%E3%81%A4%E7%97%85%E8%A3%81%E5%88%A4%E3%80%8D/kwd>