要はいかに「伝えられるか」が問題。

8月初旬に放送された「プロフェッショナル仕事の流儀~宮崎駿」で、あまり
完成度が良くない絵を描いている社員に対して「檄」を飛ばしていたシーンが
あった。

“この鳥は飛んでない。”という口ぶりで、“喧嘩を売られているような感じ
だ”と憤慨していた。

また人間になったポニョが宗助に抱きつくシーンでも、
これではダメと宮崎駿自ら手直しをしていた。



ちょっと待てよ。と思った。
実質数ピクセル角のような画なのに生き生きと飛んでる鳥を描けとか、女の子
が男の子に抱きつくシーンとか。リアリティーを考えれば、
「それは正しいのか?」
と思った。

中には「今日も辛ぇ~」と思いながら飛んでいる鳥だっているだろうし、全て
元気に伸び伸びとしていると定義する方が、無理があるようにさえ思う。


でも違う。
つまりこれはノンフィクションであってドキュメンタリーではない。
必要なリアリティーは、最低限の、つまり観覧者が現実と見まがうか否か?く
らいのリアリティーさえ担保していれば、それでいい。

要は、観覧者にクリエーターがどう伝えたいかであり、クリエーターは伝わる
ように描けなければならない。と言う事だ。



言葉1つにするなら「演出」ということになるが、脚色ではない。脚色は悪い
言い方をすれば“煽る”ようなイメージだからだ。
演出は“工夫”をすることであり、火に油を注ぐような事をすることではない。

例えば人物像を描く場合、真正面からバストアップで撮る場合と、右斜め横か
ら撮る場合。また均等にライトを当てた場合と、サイドから強くライトを当て
て陰影を出す場合では、その人の写り具合や観覧者の印象は違ったものになる。
これが工夫であり演出だと思う。

ちなみに昨今のTV番組は演出ではなく、脚色だ。しかも恣意的な脚色。



伝わればどう描いても良いってわけではないが、きっちりと描くことも考える
べきなのだが、これを見て観覧者がどう感じてくれるか?を考えながら描かな
いと、自己満足だけで終わってしまう。
伝わってくれてこそ、始めて描いた意味が出るのだ。

動いている。だけではダメなのだ。どういう気持ちで動いているかを絵に込め
ないと、相手には伝わらない。のだと、俺は思う。



昨今のTV番組やマスコミのように、高い視聴率が取れさえすればどんな表現
をしても構わない、と言うやり方では、発想はより貧弱になっていくばかりだ
と思う。

表現力を磨くといっても、じゃあ今の表現方法は江戸時代や室町時代でも通じ
のか?と言えば、俺はNOだと思っている。つまり時代によって取るべき方法
は異なっている筈で、それは3~5年ごとに変わっていっていると思う。

だから磨けない、磨いても意味がないというわけではなく、自分なりの表現方
法を確立することが一番重要なのではないか。と思うのだ。



でもどんなに寝食忘れて努力しても、その時代が受け入れてくれるか否かや、
今のように視聴率主義のマスコミ、エンターテイメント業界の中では、クリエ
イターが報われる確率は非常に低い。と強い憤りを感じざるをえない。